< 長元坊雑録 >

年明け三度目のFW
2020/01/10
◆二度目の昨日は・・・ベニマシコを探しに出たが惨敗でした。今日は、ため池巡りから始めて、次に田園地帯へと方針を転換。車の外気温は9度とか10度とか・・暖冬のせいか、ため池の水鳥も未だ増えていない様子。
◆ただ、もしやと覗いた山際の池に、ミコアイサが多数(パンダ柄の♂が6羽,♀が11羽)飛来していて、ビックリ!これまでの観察だと、せいぜい♂は1〜2羽、♀で3〜4羽程度が近辺のため池では普通。雌雄17羽もの集団は初めてでした。
◆チョウゲンボウやコチョウゲンボウが、例年必ずやって来る田園地帯の真ん中の柿の木に、昨年中は全然姿を見なかったが、今日チョウゲンボウ♀が止まってました。撮影していると突然いなくなるので、ファインダーから目を離すと、チョウゲンボウの止まっていた枝には、いつの間にやらノスリが入れ替わってました。獲物を待つには絶好のポイントだけに、場所取り競争も激しいようだ。

目新しくはないが
2020/01/06
◆チョウゲンボウ♀、オカヨシガモ(この個体は♂エクリプスか)、エナガの以上三種が、今年の初撮りとなりました。撮影スルーしたのは、ノスリ・カシラダカ・ハシビロガモ・コガモ、それと・・オナガガモにオシドリなどなど。エナガはいいのが撮れました。フォト展へ出すことになるかも・・・。

明日からは
2020/01/05
◆家の人口密度が急に↓となり、元の静寂さが戻ってきました。明日の天気は・・・待望の雪なら尚更よしで、わがフィールドを回ってみようと思う。それにしても今年は雪が降りません。尋常ではない。

芥川ーなおも続く
2020/01/04
◆雲岡石窟は1982年当時も今も第20窟の石仏が最も有名だが、その時私が撮った何枚かの写真と、芥川が写った写真の比較検証を試みたが、芥川の右に石仏の膝と光背の一部が写り込んでいるだけで、石窟のナンバー特定は難しかった。ただ、写真全体から受けた印象としては第5窟か第6窟あたりではなかったかと思われる。
◆さて、その「上海游記」「江南游記」を拾い読みしてから、番組でも主要なシーン構成した「湖南の扇」を読んでいて、あらら・・と気が付いた。芥川は冒頭5行置いてから、「大正十年の五月十六日の午後四時ごろ、僕の乗ってゐた沅江丸は長沙の桟橋に横着けになった」と書き始めるのだが、翌々日の記述にこうあった。「折角の譚(中国人の友人)の勧めに従い、湘江を隔てた嶽麓へ麓山寺や愛晩亭を見物に出かけた。」先に私が、「杜牧ゆかりの愛晩亭の話がでて来ないが」と書いたが、やはり芥川がここを訪れていたことは、改めて「湖南の扇」を読んで知れた。
 山 行 杜牧
遠上寒山石径斜 遠く寒山に上れば石徑斜めなり,
白雲生處有人家 白雲の生ずるところ人家有り。
停車坐愛楓林晩 車を停めて坐ろに愛す楓林の晩(くれ)
霜葉紅于二月花 霜葉は二月の花よりも紅なり
 愛晩亭にはこの杜牧の詩碑があったはずだが、芥川は何んらの感慨も湧かなかったとみえて、「湖南の扇」のどこにも言及がない。長沙では専ら芸妓の話や、公開処刑された賊徒の話など。その賊徒の流した血が染みこんなビスケットを芸妓が齧るシーン−番組はこれをちゃんと映像化しておりました。
◆今回岩波の全集13巻「湖南の扇」の注解も併せて読んで、誤記があることに購入後20年にして初めて気がつく。巻末339ページに芥川の長沙訪問を、1911年5月30日としている点である。年譜を見ると、1911年5月の芥川はまだ第一高等学校の学生で、枕草子を読んだとしか5月の記載がない。一方1921年の年譜では、5月29日長沙に出かけて洞庭湖を見物するが濁っていて失望する。6月1日長沙から漢口に戻る−とあり、1911年の長沙訪問は1921年の誤植であることは間違いないところ。だだ、それにしてもと思う。この芥川の杜牧スルーは私にとって不審。杜牧の愛晩亭は、濁った洞庭湖ほどに芥川の興味を引かなかったものか・・・。 
  <正月休みも過ぎた。話の続きはまたの機会に>

芥川ーさらに続く
2020/01/03
◆この時の芥川は28歳。帰国したその年の8月には、森鴎外が死んでいる。中国共産党の第一回全国(代表)大会が開かれたのも1921年、上海のフランス租界7月23〜31日で、20人足らずの創設メンバーの一人が毛沢東だった。毛はこの時29歳。いつどんなルートで毛が上海に入ったかは不明だが、芥川が江南や長江を遡って長沙まで旅游したころなので、どこかですれ違っていたかも−と考えてみるのもおもしろい。この番組の中でも、毛と共産党大会のことに触れていたように思う。
◆ここで再度、大同の雲岡石窟の話に戻す。山西省の大同は私も訪れたことがある。それは芥川が訪れた60年後の1982年8月のこと、北京で南口−居庸関−八達嶺長城を回った後は一路列車の旅となり、次に向かった先が大同だった。当時はまだ内陸部への外国人旅行が難しかったころで、毛が死に、ケ小平の復活が現実のものとなってはいたものの、まだ華国鋒が首の皮一枚でなんとか止まっており、北京飯店の外壁には文革時のスローガンが、消されてなお痕跡が読み取れた時代だった。
◆大同で雲岡石窟を見た後は、列車を乗り継いで内蒙古自治区のフフホト包頭、さらに包頭まで深入したが、中ソ対立で北京防衛の縦深陣地となった陰山―大青山の山岳部では、通訳から<撮影禁止>が通告される場面もあった。また、訪問した生産大隊には、建物に「人民武装部」の看板が見えるなど、後に消滅する人民公社がまだ存在している−私が大同市近郊の雲岡石窟を見て回ったのは、そんな時代だった。*大同はかって平城ともいい、一時は鮮卑族拓跋氏が建てた北魏の都となり、その昔遠征した漢の劉邦が匈奴に包囲される事件が起きた場所でもあった。

雑文つづき
2020/01/02
 チビたちを連れて車で外出ーなんと田園地帯の中で猛禽類に遭遇。双眼鏡もカメラもナシ。なんと小2男子がカメラも持って出ていた。帰ってから画像を確認すると、コチョウゲンボウ♂だった。それまでアオサギとトビを写しているのは見ていたのだが・・・撮り始めて3種目がコチョウゲンボウとは、この子はついている!
 とはいえ、チビちゃんたちとポーカーやドメモなど、ゲームしてばかりで過ごすわけにもいかないので、昨日に続けて駄文を綴ってみた。

◆「上海游記」のことは置いて年譜をさらに見ていく。芥川は1921年3月28日に大阪毎日新聞の特派で、門司港から筑後丸という船で出発し、同月30日に上海の埠頭に着岸する。到着直後には感冒にかかるなどして体力が落ちて一時入院したものの、5月2日には杭州へ移動して西湖や霊隠寺を遊覧。さらに5月8日に蘇州、12日には南京を経て揚子江に臨み、九江−廬山を回って5月29日には湖南の長沙まで、揚子江を遡っている。杜牧ゆかりの愛晩亭の話は出てこないが、市井の反日気運に触れながら女子師範学校などを参観、折り返して長江を下る。6月10日に洛陽で龍門石窟を見てから、さらに北上して翌11日に北京に入る。
◆北京では、文人の胡適に面会したり京劇を観たりするのだが。「6月24日に大同に行く予定がストライキで列車が動かず・・・」との記述がある。7月10日に天津へ回ってから、予定を繰り上げて東北の奉天、朝鮮の釜山を経由し、7月17日に門司港に帰還してる。芥川自身が「北京に滞在している中に大同府から南口、八達嶺の方面を残らず見物しました。北京では胡適や高一涵氏にも合いました。周作人氏は病気のため西山へ静養に行って合えず」と、別のところで書き残しているので行ったことは間違いないのだが、日にちの特定はできない。年譜を拾っていくと、6月28日から7月9日の間ということにはなろうか。
◆さて、「上海游記」である。くだんの某局の番組には、ここから映像化されたシーンも幾つか出ていたのだが、読み進んでいて映像との違いに気が付いたことが一つあった。上海城内で盲目の乞食を見かけるところで、芥川はこう書いている。「・・・この盲目の老乞食も、赤脚仙人か鉄枴仙人が化けてでもゐそうな恰好だった。殊に前の敷石を見ると、悲惨な彼の一生が、綺麗に白墨で書き立ててある。字も私に比べるとどうやら多少うまいらしい。私はこんな乞食の代書は、誰がするのだろうと考へた。」
 何が違っていたかというと、綺麗に白墨で老乞食の一生が書かれていたのが、映像では敷石でなかったことである。乞食が座った前の敷石ではなくて、乞食の背後の−何かは判然としないが廟か寺の板壁(門扉か)に、白墨の文字が達筆で綴られていた。芥川が見たとおりの映像化は、考えてみると確かに難しそうではあるのだが。

年のはじめに・・・といっても
2020/01/01
とりたてて新たな決意など何もないのですが、当面鳥見はできそうもないので、雑文でもと。

◆毎年のことながら、TVの年末特番には閉口していて、見るべき番組がないので時間を持て余してしまう。昨夜、就寝直前にチャンネルを回すと、某局の「・・・上海の芥川龍之介」なるタイトルを目にして、ついつい引かれて終わるまでお付き合いしてしまった。進行につれて気になり、芥川龍之介の年譜を開いて見たりもした。
◆そうだ。いつか暇になったら、芥川の作品をすべて読み切る計画で、岩波の芥川全集を購入しておいたのだった。年譜は全集の最終第24巻に載っている。全集の発行年を巻末で確認してみると1996年6月とある。購入してはや20年の歳月が経過しておりました。番組を見終わって、「湖南の扇」とか「江南游記」、「長江游記」、などのタイトルを思い浮かべながら、ベッドに入ってから開こうと、とりあえず「上海游記」が載る第8巻をもって寝室に上がる。
◆本を開くと、最初に写真のページが挿入されている。服装は背広姿のまま頭に探検帽のようなものを被った芥川が、後手で足を交差するという−不思議な格好で写っている。背後の壁に寄り掛かっているようにも見えるが・・よく見るとそうではない。写真の説明に「1921年、大同の石仏前にて」とあり、周囲の空間や背後の壁面に無数の仏の彫刻群が判別できることから、北魏が現在の山西省大同市近郊に穿った雲岡石窟群のうちの、いずれかの石窟で記念撮影したものに違いなかろう。
<つづく>

今年もあとわずか
2019/12/30
◆西方からチビちゃんたち27日に帰ってきて、我が家の人口密度が急上昇、なかなか賑やかになりました。翌日28日の午後には、OHKの<リセット>という「絶滅危惧種スペシャル」番組があって、チビたちと一緒に見たんですが・・
◆実はこの番組の一部のVTR撮りが、先月の末ごろにあって、頼まれてこれに私が<協力>していたものの、心配と悩みの種でした。というのも、偶然に前回か前々回のこの番組を見たことがあって、かなりバラエティ色が強いなぁーとの印象を受けたもので、編集でどんな仕上がりになるか???と。協力依頼を受けたものの、それが一抹の不安・心配の原因で・・・。
◆見終わって安心しました。スタジオで三人の子どもたちが映像をみながらヤリトリしたり、オシドリにかぎらず野鳥との接し方について、子どもたちへ伝わるような編集にもなっていたように思えました。(ひいき目か?)
私の登場にはビックリしながらも、ウチのチビたちは喜んで見ておりましたデス。

居るべきところにやっと
2019/12/21
◆なんかやってくるのが遅いなぁ・・と思っていたタゲリとコチョウゲンンボウに、やっといつもの場所で遭遇できました。
◆普通のチョウゲンボウだと、バッタを捉えているのはよく見かけるけど、小鳥はどうだろう?一方のコチョウゲンボウは小さい割にアトリなどの小鳥も襲うので、キセキレイなどの小鳥が、コチョウゲンボウの止まった電線周りに集まって、警戒に当たっておりました。
◆毎年タゲリの集団がやってくるポイントは、環境がやけに開けてしまって、今年はどうかなと心配していたところ。たまたま近くのため池の水抜きが幸いして、少なくなった池の水際に数羽が飛来。
◆新たなにクマタカに遭遇したから一羽を確認。以前からこのあかりにいたのかどうか?不明。当面は折々に観察に行ってみないことには、なんとも・・・。

クマタカの新たなツガイ
2019/12/14
◆予想外のところで、別のクマタカのつがい発見!くだんのクマタカ・エリアから東方へ・・何キロあるだろうか。隣接した縄張りになるのか・・。
◆最初は気付かなかったのだが、2羽止まっている−画像−落葉喬木の対角線上。下の枝被りは、もしや若鳥?と思ったのだが、少し覗いた顔は成鳥のようで、しかも上の個体より幾分大振り。てことは上が♂で下は♀かと考えられる。
◆そうか・・・この辺りにもクマタカがいるのか。実は3〜4年一度だけ、高高度を飛ぶクマタカを見たことがあったのだが、一時的なものだろうと気にもかけてなかったわい。

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